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紫苑の出衣
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タイトル:しおんのいだしぎぬ。

日々のこと、趣味について語りたいと思います。
心理学、西洋占星術、歴史(主に院政期)など。
よろしければおつきあいくださいませ☆

注意!あくまで本をかじっただけの素人が言っていることなので、学術目的の方はご遠慮ください。
また、このブログ内の文章の無断転載等はおやめ下さい。

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反省しました。

2012/01/31 17:51
一連の書き込み&ツイッター騒動について。

私が悪かったです。
どうせ見ていないだろうと気軽な気持ちでツイッターで呟いてしまっていました。
見ていると思っていたにせよ、思っていなかったにせよ、あれは良くない行為でした。
無責任でした。

ツイッターとはいえ、そこにいない人のことをとやかく言ってしまったら、それはもう悪口になってしまうんですね。
愚痴ではなく。
自分がされたら嫌なことを他の方にしてしまっていました。
申し訳ありませんでしたm(__)m

まだアマチュアだからという甘えもあったんだと思います。
「プロ意識を持つ」というのはおこがましい気がするのでとても言えませんけど、「分かる人にだけ分かればいいや」等の甘い考えはこれを機に捨て去ろうと思います。
作家志望の人間の正しい姿勢というのは、手本がないのでちょっと分かりませんが。
愚痴をこぼしたらいけないんでしょうか。
でもプロの作家さんでもそういう人いるしな…。

書き込みに対する反応にも気を付けます。
プロなら叩かれて当たり前、なんですから。
冷静に、感情的にならずに、聞くべき意見とそうじゃない意見とを見分けて対処する。
聞くべき意見には素直に耳を傾け、次に生かす。
口先だけではなく、それを行動で示さなくては。


しかし、創作状況(一発目に上卿って出た私のパソコンはさすがw)を呟けないとなると、私は何も呟けなくなってしまうんですが(泣)。
だってあんまりリアルなことは人に話したくないし、話せないですもん。
それこそ愚痴ばっかりになってしまいます。
フォロワーの皆さんに不快な思いはして欲しくありません。
あっ、私一連の騒動を見てもフォローを外さないでいてくれた方に感謝しています。
ありがとうございますw


もう見ていらっしゃらないでしょうけど、ここで謝罪と感謝の意を示させていただきました。
すみませんでした、そしてありがとうございました(特に「通りすがり」様)。


しかし私のツイートを見ている人は見ているんだな、と驚きました。
今現在フォロワー数は42とそう多くはないのに。
ツイッターって便利だけど怖いツールですね。
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「秘密」と「交錯」の間

2012/01/23 19:15
2009年に書いた「秘密」と「交錯」の間の小説です。


 あれから半月ほどが過ぎた。
「殿、閑院の権中納言様(能信)から、お便りが来ています」
「焼き捨てろ」
「中も見ずに、よろしいのですか?」
「いいから捨てろ」
 全く冗談じゃない。あんなことを仕出かしておいて、何の便りだ。謝罪か?逢瀬の案内か?強姦罪で検非違使に訴えたっていいんだぞ。もっとも、私の恥になるのでそんなことはやらないが。大体何だってあんなことを。考え始めて頼通はやめた。あいつのことだ。深い考えがあってやったことではないだろう。どうせしょっちゅう引き起こしている暴力沙汰の一つに過ぎないつもりでいるのだ。浅はかなことだ。
「北の方様にはお知らせしますか?」
「いい。差し出がましい真似をするんじゃない」
 妻には知られたくない。あれは勘のいい女だ。きっと何かがあったことに気付く。
 次の週、また次の週と便りは送られて来た。これだけ頻繁に便りが来ると、家人が怪しむ。頼通は封書を開き、中の懐紙をめくった。
「九月三十日、閑院邸で」
 書かれていたのはこの一言だけであった。なんだ、莫迦にして。この私がのこのこ出かけるとでも思っているのか。情人を持つ女じゃあるまいし。頼通は即座にそれを破り捨てた。だが。この先もこうして便りを出されてはたまったものじゃない。一度赴くべきか。頼通はそう思い、使いの者に返書を持たせた。

 深更になって邸に出向くと、この前と同じ間に通された。
「来たのか」
「お前が呼んだんだろ」
 私はぶっきらぼうに言った。
「酒でも飲むか?」
「いい、今日は話しがあって来た」
「話し?俺には別にないけどな」
「私にはあるんだ。金輪際邸に便りをよこさないでくれ」
「妻が怖いってわけかい」
「茶化すな。妻は関係ない」
 そこで能信は私の目を見た。絡みつくような視線が不快だった。
「摂政殿は世間知らずでいらっしゃる」
 そう言って能信は低く笑った。
「何だと!?」
「こんな夜中にのこのこやって来て、話しがある、などと。あの便りの意味は、逢瀬を重ねよう、という意味ですよ。それ以外に何があるというんです?初めてだったわけでもあるまいに」
 私はかっとなった。顔が火照っているのが自分でもわかる。
「それは……。私がこんな時間にやって来たのはそういうつもりじゃなくて……」
「じゃあどういうつもりで?」
 そう言うと能信は私の顎に手をかけ、頭を上に持ち上げた。視線がぶつかりあう。既に酔っているのだろう。能信の目は座っていた。
「とにかく、邸に便りはもう寄こすな。こうやって会うこともしない」
 そう言って私は能信から目を逸らし、手を振り払った。するとその拍子に床に置いてあった鏡筥にぶつかり、私は均衡を崩して床に倒れ込んだ。
「いたた」
 能信が私を見下ろしていた。しゃがみ込み、
「本当に女みたいだな」
 と言って私の頬に触れる。女顔、とよく人には言われるが、面と向かって言われると少し不愉快だった。能信の手はすでに私の直衣にかかっている。
「いい、自分で脱ぐ」
 手を振り払い、私は観念して直衣を脱ぎだした。こんな時間に一人でやって来た自分が悪いのだと思いながら。
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欠月―対の君の抄ー

2012/01/23 04:28
万寿元年(1025年)、故式部卿宮(為平親王)の子右衛門督殿(源憲定)の娘二人が両親を亡くして心細い思いをしているという噂を聞きつけた隆姫が、右衛門督の娘の面倒をみると言いだした。
隆姫にとって右衛門督殿は父方から見れば従兄妹、母方から見れば叔父にあたる。
自分も父を亡くしているから、同情したのだろう。他人事だとは思えなかったに違いない。
二人は結局女房よりは扱いは上の、いわば隆姫の話し相手というような処遇で邸に引き取られることになった。

頼通はある日二人を紹介された。
姉の方は二十歳ばかりを過ぎた頃。
妹の方はそれより一つ二つばかり年下か。
姉の方は明るく快活な女性で、妹の方は楚々とした風情のしおらしい女性に見受けられた。
扇で顔を隠してはいたが、二人とも黒髪が美しかった。

そのうちに、姉の方はさる大納言の息子に縁づき、その息子が尾張守に任じられたので姉の方も尾張に下向していった。
妹の方はこれといった縁談が持ち上がることなく、相変わらず邸に仕えていた。
邸の対にあたるところに住んでいたので、「対の君」と呼ばれていた。
 
隆姫が清水詣に出かけていて、邸の中が人手不足になっていた時だった。
客分扱いの対の君も女房として駆り出された。
対の君が、私の出立の準備をする。
「関白様、直衣はこちらでよろしいでしょうか」
「ああすまないね、本来ならあなたはこんなことをする身分じゃなかったのに」
「いえ、とんでもありません。北の方様のご好意がなければ、今頃姉妹二人どうなっていたか……」

そう言って対の君は目を伏せ、ゆっくりと首を傾けた。
よく見ると高い鼻と、目元のあたりが隆姫に似ていた。
直衣を着付けられる時、私の中心部分に対の君の手がかすかに触れた。
情けないことに、私の中心部はそれですっかり固くなってしまった。
対の君は「あら」とでもいうように一瞬気が付き、そこでくすり、と笑った。
淑やかそうに見える対の君に笑われるとは思っていなかったので、私は単純に驚いた。
「申し訳ありません。つい……」
そこで対の君は笑うのをやめ、
「私が……、お慰め致しましょうか……」
と顔を真っ赤にして、おずおずとこんなことを口にした。
「君は、共寝をしたことがあるの……?」
驚いた私はそれだけを口にした。
「いいえ。ただ、関白様をお慰めすのも私の務めかと思いまして。北の方様もいらっしゃらないことですし」
未通女(おぼこ)の女性の予想外の発言に私は驚いたが、女性からの誘いを断るわけにはいかない。
私は使いの者に陣定に一刻ばかり遅れると申し伝えておいてくれと言い、対の君を臥所へと案内した。
「こちらがいつも北の方様と摂政様が使っている寝所なのですね」
「野暮なことを言うものじゃないよ」
そう言うと頼通は対の君を抱え上げ、寝台の上に寝かしつけた。
たった今着付けられた直衣を脱ぎ、対の君の衣裳も脱がせる。
対の君はかすかに震えていた。
本当に未通女(おぼこ)なのだなと頼通は思った。
襲ねの隙間からゆっくりと手を差し入れ、胸を揉みほぐして乳首を追い求める。
乳首はすでに固くなり始めていた。
襲ねを押し開くと、白い胸が露わになる。
豊満な胸。
そこは隆姫と違った。
乳首を吸い、右手で肩を押さえつけながら袴の紐を解いて左手で腹を撫でる。
そしてその下の秘所へと手をのばす。
対の君の肩がビクン、と跳ね上がった。
「悪いようにはしないから。じっとしていて。力を抜くんだ」
頼通が耳元で囁く。
対の君はしっかりと目を閉じ、呼吸を楽にした。


それからというもの、頼通は隆姫の目を盗んではたびたび対の君を召すようなった。
対の君は淑やかで大人しい女だったが、交合に慣れてくると次第に積極的になっていった。
閨の折りだけは放埓で大胆な女に変貌するのである。
閨の時以外はそんな様子はおくびにも出さなかったが。
しまいには乳母から教わりでもしたのか、口淫までするようになった。
「口淫してあげましょうか?」
と、高飛車にこんなことを言ってきたりする。
さすが隆姫の従姉妹なだけあると頼通は思った。
隆姫も高飛車な性格をしている。
もっとも、隆姫は口淫など絶対にやってはくれないだろうが。
「ああ頼む」
頼通がそう言うと、対の君は待ってましたとばかりに衣裳を脱がせ、手で頼通の中心部を撫でて口淫をする。
「はっ……。うん……」
口淫が上手くなっている。
頼通はたまらず声を上げた。
射精しそうになったところで頼通は対の君を押し倒し、彼女と交わった。
対の君の秘所はすでに濡れていた。
「あっ……」
甘い喘ぎ声。
頼通はこれをずっと聞いていたいと思った。
だがそうもいかない。
直に隆姫が起きてくる。
頼通と対の君は皆が起きてくる前の早朝に示し合わせて交合に及んでいたのであった。
「出すよ」
対の君は少し名残惜しそうな表情をしたが、すぐに
「はい……」
と頷いて目を閉じた。
頼通は対の君の膣に射精した。
放出した後、布で丁寧に対の君の秘所と自分の中心部のまわりを拭く。
その様子を見ていた対の君が、
「そんなこと、私が致しますのに」
と口にした。
「いや、いいよ。自分でする」
時間が惜しかった。
頼通は全てをきれいにした後、急いで衣裳を着こんだ。
すると対の君が
「そんなに、北の方様が怖いんですの?」
とうっすら笑みを浮かべて聞いてきた。
頼通は怒りもせず、
「ああ怖いね」
と言って笑った。
「君は怖くないの?そうじゃなくても罪悪感を感じたりとか……」
「だって関白様をお慰めするのはお勤めですもの。北の方様もきっと許して下さいますわ」
対の君はこんなことを言ってのけた。
「お勤め?じゃあ君はいやいや私に抱かれているのかい?」
対の君は流し目をし、
「そんなわけないじゃありませんか」
と言った。
その流し目にはそそられたが、皆が起きてくる時間が迫っている。
私はもう一度対の君を抱きたくなったのを我慢して、衣裳を完璧に着こなした。
対の君も方もいつの間にかきれいに衣裳を身に纏っていた。
「じゃあ都合が付き次第また女童を寄こすから。今日はこれで」
「わかりました」
対の君はいつものしずしずとした風情に戻り、深々と礼をした。

だがこの関係は長くは続かなかった。
対の君が妊娠したのだ。
三十三歳になっても未だ実子に恵まれないでいた私にとってはそれは喜ぶべき慶事だったが、隆姫に私の浮気がわかってしまうのは都合が悪かった。
かといって対の君のお腹の子の父親を明かさないわけにもいかない。
事実対の君が妊娠していることが発覚した時、邸の中は一時騒然としたのだ。
客分扱いの対の君を妊娠させたのは一体誰だ?と。
結局私と対の君の関係に気付いていた古株の女房が邸の女主人である隆姫に注進し、対の君の父親は私だということがわかってしまったのではあるが。

だが対の君の父親が私であることがわかると、邸内は一転して祝賀の雰囲気になった。父も母も、
「お前になかなか子供が出来ないことを、私も家内も心配していたのだ。故右衛門督殿(源憲定)の娘なら血筋も正しいし、本当に良かったじゃないか」
と祝福してくれた。
ただ、おさまらないのが隆姫である。
まさか、こんな結果になるだなんて。
隆姫は飼い犬に手を噛まれたような気分であった。
結婚して十年近く経つのに、私は殿の子を妊娠することが出来なかった。
それが対の君は邸に来て半年ほどしか経ってないのに殿の子を孕んだ。
くやしい。
これが他人であるならまだましだったのに。
隆姫は対の君に対し、あからさまに憎悪をぶつけるようになった。
そんな女主人の意を汲んでか、邸の女房たちも対の君に対して冷たい態度をとる。
私はそれを見て見ぬふりをした。
恐妻家と言われようが、隆姫には逆らえない。
対の君は時々何かを訴えかけるような目で私を見ていたが、私は目を合わせようとしなかった。
なんてずるい男だろう。
それでも月は満ち、やがて子が生まれた。
男の子だった。


頼通はその後対の君を対の君の乳母の邸へと移し、関係を続けますが、対の君はある日忽然と姿を消してしまいます。
代って頼通のお相手をするようになったのが進命部(寛子・師実の母)なのでした。
栄花物語とは若干違いますが、当小説ではこんな感じで対の君と頼通の様子を書いてみました。
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欠月ー敦康親王の抄ー

2012/01/23 04:22
寛仁二年(1018年)十二月、一条天皇の第一皇子敦康親王が薨去した。親王妃は妻隆姫の妹で、私たちは相婿の関係にあった。
同じ邸に同殿しており、始終行き来が絶えないほど親しい仲にあった。
よってその死は頼通にさらなる孤独感をもたらしたのであった。
敦康親王には二、三年ほど前に生まれた女の子がいた。
頼通はこの女の子を大切に遇しようと思った。

敦康親王は一条天皇の第一皇子でありながら母親の家系が没落気味だったために皇太子となることの出来なかった、不遇の皇子である。
生まれる前に外祖父を既に亡くしており、叔父である帥殿(藤原伊周)も八年前に亡くなっていた。
彰子姉さんが敦康親王を養育していたのは、姉さんが皇子を産まなかったための保険としてであった。
そのことを証明するかのように、姉さんが皇子を産んでからは父は敦康親王に積極的に奉仕しなくなった。
もちろん東宮の証である壺切の太刀を渡さなかった敦明親王の時のように、目に見える形で圧力を加えるわけではなかった。
ただ、自分の孫皇子の即位を第一に考える様になっただけである。

敦康親王のことを愛情を持って育てていた姉は、三条天皇が退位するときに、敦康親王を皇太子にすることを父に要求したらしい。
敦康親王は姉の産んだ皇子たちとは十歳ほど年が離れている。
姉にしてみれば、まずは敦康親王を天皇にし、次の次の天皇に自分の産んだ皇子を立てればいい。
私もそれに異存はなかった。
敦康親王は才に秀でて人柄もよく、誰もが望む皇太子候補だったからだ。
だが父はそれを許さなかった。
父は豪放磊落な性格ではあるが、年来病気がちだったのである。
自分の寿命が尽きる前に、なんとか孫皇子の即位するところが見たい。
父の願いは切実だった。
結局私も父に逆らうことは出来ず、後ろ髪を引かれる思いではあったが、姉さん所生の第二皇子・敦成親王の立太子に賛成した。

不遇の皇太子候補に対し、私はいつしか友情や同情以上のものを感じるようになっていた。
ありたいていに言えば、恋愛感情を抱いていたのである。
肌を重ね、寄り添い合い、共に不遇を嘆きあいたい。
だがそれを実行に移すことは躊躇われた。
触れれば壊れてしまう細やかな作りの竹細工のような風情を漂わせながらも、敦康親王には一本筋の通った芯のようなものがあった。
気さくで朗らかな雰囲気を実に纏いながらも、心の奥底までは決して覗かせない。
そんな毅然とした決意のようなものを、頼通は常々感じていた。
頼通にとって敦康親王は聖域だった。
汚してはならない、とても神聖なもの。
敦康親王の方は頼通の気持ちに気付いていたかはわからない。
だがあの宮様のことだ、知っていて素知らぬふりをしていてくれた様な気もする。


「宮様はいつも何を考えていらっしゃるのですか?」
 ある日、邸の蔀近くで遠い目をして外を見ている敦康親王を見て、頼通が聞いた。
「何にも。今日の夕餉は何かとか、養母(はは)上に贈り物をしたいけど何がいいかとか、そんなことだよ」
敦康親王はそう言っていつものように微笑んだ。
宮様は愚痴を言うこともなかったし、自らの不遇を嘆くこともなかった。
それが頼通には不思議だった。
「宮様は、ご自分の不遇を嘆かれたことはないのですか……?」
敦康親王は一瞬儚げな風情を漂わせたが、すぐに気を取り直したのか、
「私は自分のことを不遇だなんて思ったことはないよ。養母上も左大臣殿も自分にとてもよくしてくれるし、いつだって感謝している。これ以上を望んだら罰が当たるというものさ」
そう言って快活に笑われた。
私にはそれが少し痛々しく、また自分に本当の胸の内を語ってくれないことに寂しさを覚えた。
だが、それも自分を保つための手段なのだと思えば一応は理解できた。宮様は孤独なのだと思う。
そしてそれを悟られまいと必死に努力をしている。
少しでも力になりたいと思っていた私には、それが少し歯痒かった。
惜しい人を亡くしたものだ。
手がかじかむほど寒い日の朝、囲炉裏の中の炭をかき混ぜながら、頼通はしみじみ思った。



敦康親王のこの部分は隆姫一筋の頼通という設定と矛盾するので、ばさっとカットするかもしれません。
「欠月」シリーズ、新人賞に投降し次第全部排除しますので、あしからず。
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歴史小説「美福門院崩御」参考文献

2011/12/25 19:00
河内祥輔 2002 保元の乱・平治の乱 吉川弘文館
元木泰雄 2004 保元・平治の乱を読みなおす 日本放送出版協会
竹鼻績 1984 「今鏡」全訳注 講談社

上手く挿入することが出来なかったので書きませんでしたが、美福門院の死を悼んで葬儀に参列し、和歌を詠んだ公卿もいます。
若狭守隆信。
似絵(にせえ)の名人ですね。
母親は美福門院加賀で美福門院、のち八条院付きの女房。
定家は異父弟です。
八歳で美福門院の蔵人となったそうです。

〈今鏡〉幼い時からおそば近くお仕え申し上げていた若狭守隆信という者が、離別に耐えかねて葬送に当たって高野山に入ったが、女院の御遺骨が高野山に御入りなさる日に雪がしきりに降ったので、こう詠んだと書かれています。
「誰かまたけふのみゆきを送りおかむ我さへかくて思ひ消えなば」
(私をおいてだれが今日の雪の中の女院の御幸を最後までお送りして葬り申しあげるだろうか、私までがこのように心が消え入るほどに深く思い沈んでしまったならば。)


配偶者に看取られるのと、配偶者を看取るの、どちらが幸せなんでしょうかね。
書いていてこんなことを考えてしまいました。

美福門院は生前はそれはそれは深く鳥羽院に寵愛されて、遺産もたくさん相続しました。
(鳥羽院は大変な色好みで、晩年に至っても土佐局を可愛がったりもしてるけど)
でも鳥羽院亡き後は、鳥羽院が望んでいた通りの「王家家長としての役割by元木先生」は担えていたのかな。
それを託された美福門院は本当に幸せだったのかな、と。
権力をふるえてよかったジャンって、考えの人もいるだろうけど、果たしてそれは「本当の幸せ」なのか。
彼女にそれほど「政治力」というものがあったのか。
私は「なかった」と思っているのですけれど。
(元木先生も「保元・平治の乱を読み返す」で同様のことを仰ってます。)

その出家に多くの人が付き従い、愛する人に最期を看取ってもらった待賢門院璋子。
自分を愛してくれた人の最期を看取りつつも、「死後は別々に納骨して下さい。」という自身の考えを貫き、そのことによって葬送は寂しいものになった美福門院得子。
※「葬送が寂しいものに」の裏付けはありませんが、「今鏡」を読む限りではそう思われます。

どちらが幸せとは一概には言えないけれど、私は鳥羽の寵を失い、追いやられるような形で出家したとしても、最終的には法金剛院において「幸せ」を見出し、あたたかな最期を迎えられた待賢門院の方がいいなあと思いました。(法金剛院において「幸せ」を見出し云々は創作ですけれどね。)

でも誰に何と言われようとも(実際に言われたかは知らんが「恩知らず」等々の陰口は叩かれたと思う)、葬送が寂しいものになると予想されても、「自分の意志」を貫いた美福門院も立派だとは思う。
本当に、「死後は鳥羽院と一緒の安楽寿院じゃなくて、高野山に納骨して下さい」というのは現実にはどこからきたのかね。
単なる信仰心だけだったとも思えんのだよなぁ。
鳥羽院の生前からなんか色々思うところがあったのでは?と邪推してしまいます。


しかしそれは置いとくにしても鳥羽はちょっと可哀想よね。
せっかくわざわざ「死後は一緒のお墓で」って遺言したのに裏切られるだなんて。
自業自得と言えないこともないが(^_-)。

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歴史小説「美福門院崩御」

2011/12/25 18:04
木枯らしが吹く音が聞こえる。
ああ、妾(わらわ)はもうすぐ死ぬのか。
美福門院得子は数ヶ月前から病を患っていた。
身体中が痺れる。
苦しい…。
得子は身体を身震いさせたが、それに気付いた者はいなかった。
自分に自信がなく、いつも鳥羽院が女房たちに目移りしないかと目を光らせていた得子には、付き従って出家する女房もいなかった。
看病に当たっていたのは朝廷から命を受けた者たちだけである。


たびたび政治力のなさを露呈してきた得子から、廷臣たちは自然に離れていった。
得子は鳥羽院から譲り受けた荘園からなる経済力を基に、群臣たちから表向きは持ち上げられていたのであった。
「美福門院は癇癪持ちで困る。あれでは政治の話など出来やしない。」
「所詮は院近臣家出身の、権中納言の娘。鳥羽院は何が良くてあのような女子(おなご)を寵愛していたのやら。」
「保元の乱では鳥羽院は美福門院に権限の全てを譲渡すると言ったそうな。鳥羽院は賢君であらせられたが、女を見る目だけはなかったな。」
廷臣たちの間ではこんなことも囁かれていた。
得子はそんな噂を耳にするたび、苛立ちを隠せない。
鳥羽院がいた頃とは全く違うこの仕打ち。
あの何かと目をかけてやった伊通でさえ、主上が即位してからは主上にべったりである。

一体どこで間違ったのだろう。
保元の乱が起こる直前、妾は確かに鳥羽院から「この国を任せる」と言われたのに。
「この上はこの国の母后として関白を始めとする公卿の頂点に立ち、ことの収束に当たれ。」
と。
だがその遺命に基づいて公卿たちを参集したはいいものの、集まったのは関白忠通父子と信西の三人のみであった。
やはり妾の門地の低さが災いしたのだろうか。
いや、そんなことはない。
鳥羽院が在世中の頃はどんな上流の貴族だって進んで妾の元に伺候した。
妾を敬わなかったのは、あの左府(頼長)ただ一人と言っても過言ではない。
きっと合戦という予想外のことが起きようとしていたせいだ。
そうに違いない。
得子はそう思うことで自身を納得させようとした。
だがあの時、合戦が起こると予想していた者がどれだけいただろうか。
少なくとも妾と忠通はあそこまで大規模な合戦が起こるとは思っていなかった。
頼長の朝廷に対する‘武力行使,だけでことは済ませられると考えていた。
合戦を主張したのは、今は亡き信西入道らしい。
主上は政治に興味がなかったから、きっと合戦をしたがっていたのは信西ただ一人だろう。

保元の乱では何の問題もなく勝者となることが出来た妾だが、続く平治の乱では自身の力不足を感じずにはおれなかった。

元々仲の悪い親子ではあった。
主上が暗愚と言われている父親を疎んじ、自分を持ち上げてくれる側近たちを優遇するのは、必然であったのかもしれない。
信西の有能さが、公卿たちの間で鼻について来た頃でもあった。
信西は抜け目のない男で、出家の身で自分が昇進できない代わりに、息子たちを出世させていた。
世は信西入道の天下、上皇はその傀儡(くぐつ)に過ぎない。
巷間にさえ、そんな噂が広がっていた。

そんな矢先である。
あの平治の乱が起こったのは。
上皇の寵臣の信頼が、帝の近臣の惟方や経宗と組んで信西を排そうとした。
信西は自害し、信頼は裏切った惟方や経宗によって誅された。
そして惟方と経宗は乱の責任を取らされるようにして配所に流された。
乱によって、有力だった公卿は悉く(ことごとく)失脚した。

経宗も惟方も、なぜ妾に一言の相談もなく、謀反を起こしたりしたのだろう。
妾には政治力が足りない、女に用はない、こんなところか。
女院号を受け、この世の栄華を恣(ほしいまま)にしても、結局妾はただの女に過ぎなかったということなのだろうか。

ああもう考えることすら疲れてきてしまった。
もう眠ろう。

永暦元年(1160年)十一月二十三日、美福門院得子崩御。
告別式では参列する公卿も少なく、寂しい死であった。
鳥羽院の「同じ陵墓に納骨せよ」という遺言に得子が逆らい、高野山に遺骨を納めることにしたことから、最後の側近からも反感を買ったのである。



備後守藤原時通は遺骨を首にかけてたった一人で高野山を登っていた。
早く、早く、女院が高野山にこっそりと建てられていた御堂の元へ。
時通は得子の末弟である。
得子がまだいたいけな少女だった頃、これを可愛がり、ただ一人信用できる者として亡くなってから後のことを言い置いていたのであった。
姉は権力を得て変わってしまわれた。
だが、私の胸の内にはあの可憐だった頃の姉の姿が焼き付いている。
時通は懸命に山を登った。
遺骨を納骨さえすれば、以前の姉に戻ってくれるような気がして。
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「エピローグ」参考文献

2011/12/23 17:41
樋口健太郎 2005年 藤原師長の政治史的位置-頼長流の復権と貴族社会- 古代文化
岩佐美代子 2007 文机談全注釈 笠間書院
白州正子 1996 西行 新潮社
角田文衛 1977 崇徳院兵衛佐「王朝の明暗」所収 東京堂出版


角田氏の研究によると、兵衛佐は頼朝の母のいとこであった可能性が高いそうです。
以下は妄想です。
重仁親王は二十一歳の若さで亡くなっているのですが、もし長生きしていたら、頼朝は鎌倉の意に沿わない後白河の後見する天皇ではなくて、自身の縁者(またいとこ)である重仁親王を代りに立てようとしたんじゃないないだろうかって。
というか、そんなことになってたらいいな〜って思ってしまいます。
現実には難しかったと思いますが、崇徳院の血脈が早々に絶えてしまっていることが残念でならないのです。
第二皇子の元性法印も出家してますしね。


あと、兵衛佐が師長くんに琵琶の教えを乞うたというのは全くの創作です。
兄弟の中でたった一人この世に生かされた師長くんに、父親のことを語れる人がいればいいな、と思って書きました。


「合戦」「乱後処理」は書かないかもしれません。
元祖保元物語を読めば事足りる感じなので。

西行さんが乱後仁和寺に駆け付ける場面は書きたい気もしますが。
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エピローグ「琵琶の音」

2011/12/23 17:34
「大分上達されましたね。」
「そうでしょうか。きっと教え方がよろしいのですわ。」
尼削ぎの女性がふっと笑う。
年は六十歳頃。
教示する男性の方は四十歳頃かと推定される。

一月ほど前のことだ。
私の邸に、
「私はかつて新院、讃岐院に仕えていた兵衛佐局というものです。戸を空けてはいただけませんでしょうか。」
と尋ねて来た者があった。
突然のことで驚いたが、讃岐院の名を聞き、懐かしくなった私は女性を邸に引き入れた。
「何用でございますか?」
「琵琶を教えていただきたいのです。突然でぶしつけかとは思ったのですが、琵琶の名手と名高いあなた様に。」
師長は兵衛佐の顔をまじまじと見た。
少しやつれてはいるが、顔立ちは整っていて、美しかった頃の名残がある。
だが院の寵愛を一身に集め、ときめいていた人間にしては華やぎの影のようなものが見受けられなかった。
女房出身ということを差し引いても腰が低く、居丈高な様子が全くない。
師長はこの兵衛佐という女性に対して興味を示した。
「私は弟子はあまりとらない主義ですが、特別にお教えいたしましょう。」
「ありがとうございます。院の後世を弔いたいのです。」
「そうですか…。院の後世を。」


私の父は藤原頼長。
かつて保元の乱を起こし、朝敵とされた人物である。
私自身も八年間の歳月を土佐で流人として過ごした。
その間弟たちは全員配所で亡くなった。
弟たちとは、母が違った。
父は平等に私たちに接してくれていたが、周囲の人間は私より三ヶ月遅く生まれた弟を嫡男とみなしていた。
弟の母が第二夫人というような立場にあったからだ。
それでも勉学に励めば父も周囲の人間も認めてくれるだろうと思い、私はひたすら精進した。
陣座(じんのざ)で、父を論破したこともある。
だが学問以上に私を熱中させたものが音楽だった。
養子となっていた祖父の元で、私はひたすら楽の道に打ち込んだ。
その楽才を買われ、私は帰京後今様好きの法皇の側近となった。
保元の乱の相手方である法皇の側近となることには最初は抵抗があったが、後に法皇は乱にほぼ関与していないことが分かり、それからは進んで身辺(みのべ)に侍る様になった。
帰京してから、いろいろなことがあった。
辣腕をふるっていたという信西入道は死に、正当な王位継承者と目されていた守仁親王も亡くなっていた。
今廟堂に鎮座しているのは平氏の人々だ。
かつては平氏と組んで摂関の地位に就任することも考えたが、法皇の支持を得られず、それはあっけなく頓挫してしまった。
惜しいことをした。
だがその方がかえってよかったのかもしれない。
政治の中枢にあっては音楽の道を極めることも難しくなるというもの。
師長は楽の道を究めることこそが己に課せられた使命だとすら考えていた。


治承元年(1177年)七月の、京において内大臣殿(師長)から琵琶を習っていたある日、兵衛佐局の元に院庁(いんのちょう)から消息を尋ねる文が届いた。
なんでも凶事が相次いだことにより、これは讃岐院の祟りではないかという噂が巻き起こったのだという。
そこで院庁は讃岐院の魂を鎮めるために神祠(しんし)を建てることにしたらしい。
「生前讃岐院が所持していたもの、神祠の御神体となるものはないか。」
という問い合わせに対し、私は
「院が年来御持仏とされていた普賢菩薩像と御遺愛の鏡は私の手元にありますし、また御愛用の木の枕を材として彫った仏像もございます。」
と答えた。
結局御遺愛の鏡が御神体として使われることになったらしい。
私はそんな院庁の行動を尻目に、ひたすら院の極楽往生を願っていた。
今さら行動を起こしたって無駄だ。
祟りを恐れるのなら、なぜ早々に院を帰京させてくれなかったのか。
なぜ五部大乗経を都に置いてはくれなかったのか。
兵衛佐は今になっても朝廷側の行動が恨めしくてならない。
何かと世話をして下さる仁和寺の覚性法親王とて、保元の乱では院の朝廷側への取りなしを拒んだ。
仁和寺を守るためには致し方なかったとはいえ、同母の兄をみすみす朝廷側に引き渡したのだ。
私によくして下さるのも、きっと自分のしたことを償いたい気持ちからだろう。
院のあのお姿。
生きながらにして天狗となられたあのお姿を、朝廷側の人間にも見せてやりたかったものだ。
兵衛佐はそこではっとした。
いけない、こんなことを考えていては。
私まで道心を忘れてしまっては、院が極楽往生出来なくなってしまう。
兵衛佐は気を取り直して再度念仏を唱え始めた。


「私の父に正一位太政大臣が追贈されることになりましたよ。亡くなられた院も新たに崇徳院という号を贈られるそうで、良かったですね。」
「ええ、本当に。」
そう言って兵衛佐は微笑んだ。
「父は厳しい人でしたが、優しいところもありました。大切にしている室が亡くなったときも、寵愛している随身が亡くなったときも、やり過ぎだと周囲の人間に言われようとも彼らを手厚く葬ったりしていました。」
「素敵なお父上だったのですね。」
「周りからはあんな人の息子で苦労しているんじゃないかという目で見られていましたけどね。兄弟間の分け隔てもありませんでしたし、今となっては立派な父を持てて幸せだったと思います。」
今日は宴会帰りで酒を呑んでいるということもあって、師長の方ではつい話しが進んででしまう。
「私も院にお仕えできて幸せでした。讃岐での暮らしはそれは心細いものでしたが、院と御一緒ならば耐えられました。誰が何と言おうと、院は立派な方です。いつのときでも人々の安息を願っておられました。周囲の人間からは苦労をしたといわれますが、私は苦労しただなんてこれっぽちも思っていません。」
兵衛佐の眼裏(まなうら)には在りし日の院の姿が映っていた。
そう、本当の絶望というものを知らなかったときの。
「今宵は死者の弔いを致しましょう。」
思いついて師長が言うと、兵衛佐もはいと答えた。
二本の琵琶の音が美しく折り重なる。
もうこの世にはいない二人の耳にも届いてくれればいいと、師長と兵衛佐はしみじみ思った。



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歴史小説「配所にて2」

2011/12/21 20:57
それから一月後、あのあばら家ではさすがに気の毒だと役人側も思ったのか、私たちは今よりましなところへ転居することになった。
そこは緑豊かな富裕な土地で、人々も私たちに優しかった。
そんな暮らしに慣れて来たある日、院は
「兵衛佐、私は自分自身の極楽往生と世の人々の安寧を願って五部大乗経の写本をしたためようと思う。」
と言って笑顔をこぼされた。
何か打ち込めるものがあればいいと思っていたので、私は院のこの行動に賛同した。
また、こんな仕打ちにあっても人々の安寧を願う院の姿に、賢君の在り方を見た。
本当に、どうしてこんな素晴らしい方が執政を行うことが出来なかったのだろう。
兵衛佐は口惜しいやら情けないやらで、自然と涙が零れおちるのであった。

五部大乗経とは法華経・華厳経・涅槃経・大集経・大品般若経からなる五つの経典で、全て書写するには長大な年月を要する。
院も三年近くかけて五部大乗経の書写を完成させた。
途中で何度か挫けそうになったが、これも世のため人のためと思い、院は最後までやり通した。
「長い年月であった。見てみろ、袖に墨が飛び散って真黒だ。これだけのことをすれば、神も私のしたことを認めて下さるに違いない。」
そう言って院は磊落に笑った。
「この写経はせっかくだから都に送ろう。そうだ、父の眠る安楽寿院の鳥羽稜がいい。父が安らかに眠れるように…。」
そこで院は一瞬目を地に落とした。
鳥羽院の臨終での仕打ちがふと胸をよぎったのであろう。
「ともかく、私はこれを都に送る。兵衛佐、使者を呼べ。すぐに写経に添える手紙と和歌を書くから。」
「かしこまりました。」
兵衛佐が使者を連れてくると、院は分厚い写経に手紙と檀紙に書いた和歌を添えて使者に手渡した。
和歌は「浜千鳥跡は都に通へねど身は松山にねをのみぞ鳴(く)」というものであった。
(私の筆跡は都に帰っていくけれども、我が身はこの松山で泣くばかりである。)
私はその和歌を目にして涙ぐんでしまった。
使いの者も同じだったのだろう。
「かしこまりました。必ずや都へと持っていって参ります。」
と言って深々とお辞儀をした。


院は五部大乗経を弟の覚性法親王に送ったのだが、その覚性法親王は朝廷の許可が必要だと思い、問い合わせることにした。
その頃、朝廷では信西入道が辣腕をふるっていた。
信西は届けられた五部大乗経にちらりと目をやり、添えられていた手紙を声に出して読んだ。
「『来世で正しい悟りを得るために、五部の大乗経を墨で形ばかりかき集めて参りましたが、寺院の鐘の音さえ聞こえない遠国に捨て置かれるようなことになりますと、自分のことながら不憫に思われます。もしお許しいただけるならば、このお経を安楽寿院の鳥羽陵か、そうでなければどこか都の近くに置いてはくれないものでしょうか。』だと?」
信西は上皇の元に馳せ参じた。
三年ほど前の乱のときには主上だった四の宮、もとい雅仁親王は、今では位を退いて上皇となっていた。
「讃岐院(さぬきのいん)からこの様なものが送られてきました。」
信西が言う。
「すごい量だな。何年かけてこれを書いたのやら。」
上皇は感嘆とした声を上げた。
「この様なものを都に置いておくわけには参りません。不吉です。すぐに付き返しましょう。」
「待て、都に置くくらいいいのではないか?」
「いえ、何か呪いがかけられているかもしれませんから。」
「しかし兄上の気持ちもわからんこともない。ここは一つ私の顔に免じて…。」
上皇には兄に十年近く同じ御所に借り暮らしをさせてもらったという恩があった。
「駄目だといったら駄目です。」
「しかし…。」
強面の信西が、さらに顔を渋くさせてこちらを見ている。
「…そうか。」
有無を言わせぬ信西の態度に、とうとう上皇は折れた。
「わかった。送り返せ。」
渋々上皇はそう言った。

知らせを受けた覚性法親王は憤ったが、朝廷側の命とあっては逆らえない。
「都に置くことは叶いませんでした。無念です。申し訳ありません。」
といったことを手紙に書いて讃岐の地に五部大乗経を送り返した。


付き返された五部大乗経を前にして院はしばらく立ち尽くしていた。
しばらくすると身体が微かに震えだした。
私が一体、何をしたというのだ?
詐術によって御位から引きずりおろされた時も耐えた。
近衛帝が崩御した際、後継者に重仁が選ばれなかったときも耐え忍んだ。
父鳥羽院が死に、私に死顔を見せるなと遺言したと言われた時も、本当なら声を荒らげたかったところを我慢した。
ただ一度、一度だけ、主上方の挑発にのって挙兵しただけではないか。
あれだって私は最後まで停戦の呼びかけをしていた。
戦をしたがっていたのはやつらの方だったはずだ。
院は両の拳に力を込めると、一気に語り始めた。
「我が国に限らず、天竺(インド)や震旦(中国)にも、また新羅や百済にも、王位を争い、国を言い争って伯父と甥が合戦したり、兄弟が戦ったりした。前世における因果の優劣によって、叔父が負けたりもしたし、兄が負けたりもした。そのことについて後悔して、手を合わせ、ひざを屈して嘆く時は、許してきたのが常であるぞ。今、来世で正しい悟りを得るために書いた御経を置くことさえ許されないというのなら、あの世に至るまで、私は朝廷の敵(かたき)となろう。」
そこまで言うと院は突然右手の人差し指を噛みちぎった。
以下の言葉を呪文のように吐きながら、五部大乗経に書き連ねる。
「我願わくば五部大乗経の大善根を三悪道に抛(なげう)って、日本国の大魔縁と成らむ。皇を取って民となし民を取って皇となさん。」
「なまじ皇族とそうでない人間とがいるから私のような者が生まれるのだ。この上は全ていっしょくたにしてしまおう。そして天下に災いをもたらしてやるのだ。」
「おやめ下さい、院。どうか御心をお静かに…。」
「うるさいっ、離せ。」
院は兵衛佐の手を振り払われた。
「もう私の声は聞こえないのか…。」
兵衛佐は自身の力の無さに打ちひしがれた。


その後、院は髪も剃らず、爪も切らず、生きながらにして天狗の姿になられた。
配所での生活は、その後五年にも及んだ。
院が崩御し、遺体が火葬された時、その煙は恨めしそうに都に向かって流れていったという。
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歴史小説「乱前夜」参考文献

2011/12/20 19:54
橋本義彦 1954 人物叢書藤原頼長 吉川弘文館
飯田悠紀子 1979 保元・平治の乱 教育社
河内祥輔 2002 保元の乱・平治の乱 吉川弘文館
野中哲照 「保元物語」における<鳥羽院聖代>の演出--美福門院の機能をめぐって 国文学研究所収 早稲田大学国文学会
元木泰雄 2000 人物叢書藤原忠実 吉川弘文館
元木泰雄 2004 保元・平治の乱を読みなおす 日本放送出版協会
高頭忠造 1899 史料大觀・台記 哲學書院
武田昌憲(訳)・西沢正史(監修) 2005 現代語で読む歴史文学「保元物語」 勉誠出版

次は「合戦(かっせん)」だ〜。 

追記:「保元物語」における<鳥羽院聖代>の演出--美福門院の機能をめぐって、を参考文献に上げるのを忘れていたので追加しました。

直接的に関係があるわけではないのですが、この論文では美福門院の役割、即ち崇徳院の怨恨の対象が鳥羽ではなく美福門院にされていること、醜悪な鳥羽院像の隠蔽などを取り上げています。

保元物語では美福門院が故院の御遺言によって清盛方を招集したことが印象付けられています。
この事に対し野中氏は、「語り手は鳥羽院の中立性が失われることや、鳥羽院が崇徳院の怨恨の対象となることを恐れたためか―『御遺』ではなく『御遺』の実行者として美福門院を前面に押し出したのである。」と論じておられます。
つまり、この論文を読んで故院の「御遺言」説は疑わしいと私は感じたのですね。
wikでは「この乱においては卓抜な戦略的手腕を見せ、重仁親王の乳母子ゆえに鳥羽法皇の遺命では名が挙げられなかった平清盛兄弟をも招致し、後白河天皇方の最終的な勝利へ導いた。」とまで書ききっていることなのですが、疑問が呈されるなぁ、とつまりこういうことです。
というか辞書と銘打っているもので個人の「思い入れ」を注ぎ込むのはヤメレとあれほど(ry)。
よって私本保元物語では元木氏などが書いておられるように「祭文に従った」説をとらせていただきました。
史料としても保元物語より愚管抄の説の方を採用する方が妥当なんじゃないでしょうか。
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歴史小説「乱前夜7」

2011/12/20 19:50
主上方から帰ってきた長盛は、事のあらましを新院方の人間に告げた。
「私の言った通りにございましょう。もはや戦は必須です。」
頼長が言う。
「うむ、わかった。開戦に踏み切ろう。」
疲れた様子でそう言うと、新院は長盛に対し
「ごくろうであった。さぞや気詰まりな勤めであったであろう。」
と労った。
長盛は
「滅相もございません。」
と謙遜した。
新院は目下の者にも気を配られる、お優しい御方であった。
そこへ頼長が鎧を持ってきた。
為義から借りて来たのである。
「何かあったら大変です。武具をお召し下さい。」
新院は鎧を身に纏ったが、左京大夫教長にすぐさま
「鎧を着用するなど持っての他です。鎧を着用すること自体不吉なことです。すぐにお脱ぎ下さい。」
と窘められ、すぐに脱いだ。
頼長は鎧を身に纏ったままである。
白色の錦の狩衣に緋色の糸で威した鎧であった。
教長と左近衛権中将成雅だけが水干袴に腹巻(軽装の鎧)を着用していた。
これは戦うためではなく、流れ矢に当たる恐れがあるためであった。
成雅はかつて頼長から放逐された人物だが、子息師長の母の兄弟ということもあり、頼長とはすでに和解していた。
武者所の警護の武士は命令で皆甲冑を身につけていた。

新院は源為義、平家弘らを半官代に、さらに為義の鏑男源頼賢を六位判官代に補して御前に伺候させた。
「これより作戦会議に入りたいと思います。半官代源為義、面(おもて)を上げよ。」
頼長が新院の近くに伺候して言う。
「はっ。」
短く為義が答える。
「この戦、どう戦う?」
「人数ではこちらは敵いません。この態勢を挽回するには夜討しかないと思われます。少人数でも敵の油断を衝く奇襲攻撃なら、主上方に対抗できるかもしれません。」
「夜討だと?天皇と上皇が戦うのに、そんな卑怯な真似が出来るか!それにこちらが劣勢なのは私もわかっている。興福寺の悪僧らの救援を待った方が良かろう。」
「左様でございますか…。」
為義は頼長に対し、何もいうことが出来なかった。
左大臣殿はこうと決めたら決して他の者の助言は聞き入れない御方である。
これ以上何を言っても無駄だと思い、為義は御前から退かせてもらった。
「父上、それでよいのですか。」
八男の為朝が父の後を追う。
この為朝は九州で暴れ回り、自ら鎮西八郎を名乗った武勇の士である。
「よいのじゃ。新院方に参集された時からわかっていたこと。もはや我らに勝ちめはない。」
「何を弱気なことを仰います!この為朝がいる限り、必ずや新院方を勝利に導いて見せまする。」
為朝が胸を拳で叩く。
頼もしい様子だが、為義は
「ああ。」
と頷いただけで、それっ切り何も口にしようとしなかった。
為義は倦んでいたのである。
思えば長い人生であった。
奇しくも同じ年だった伊勢平氏の棟梁平忠盛は先年亡くなった。
結局私はあの者に何一つとして勝つことは出来なかったな。
父義親の討伐で名を上げ、院に財力で奉仕して一躍上昇気流に乗った忠盛殿。
官位は正四位上刑部卿、今この時になってようやく判官代へと任じられた私とは大違いだ。
為義はこの様なことを回顧し、一人空しさを感じるのであった。


その頃、義朝は為義と同じように夜討を進言していた。
「戦のことは戦の専門家である武士に任せる。ここは何をしても勝て。どんな手を使ってもかまわん。」
「夜討など、そんな姑息な真似はこの場に相応しくないのではないか…。」
忠通が口を挟むが、信西は聞き入れようとしない。
「主上もそう思われるでしょう?」
信西は振り返って主上の方を見た。
「うむ、信西の言う通りじゃ。私も今様を習うときはその道に通じている者に習うことにしている。信西の言うことは最もじゃ。」
主上は完全にこの事態を面白がっている。
信西は‘主上の意思,を隠れ蓑にして自分の主張を通していた。
「では夜討を仕掛けさせていただきます。御異存はありませんな?」
義朝が念を押した。
「勿論だ。さっさと行って参れ。」
信西が言う。
上流貴族と下級貴族の考え方の違いが如実に表れた会議であった。


果たして主上方の軍勢は清盛軍三百騎、義朝軍二百騎、義康軍百騎。
新院方の軍は合わせても百騎足らず。
新院方の圧倒的な劣勢の中、戦いの火蓋は切って落とされた。
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歴史小説「乱前夜6」

2011/12/19 19:34
十日夜、新院方の動きを見て、主上方が動いた。
「左府が新院の元に合流したようです。」
主上方の斥候が知らせに来た。
「やはり思った通り。これで大義名分が整いました。あとは武士を本格的に動員し、攻撃を仕掛けるのみ。」
信西入道が語る。
信西、忠通、基実の三人は鳥羽殿から主上のおられる高松内裏へと移動していた。
「いや、待て。この大軍を見れば新院方も敗北を悟り、降参してくるのではないか。」
忠通はこの場の空気に完全に怖気づいていた。
それを信西が恫喝する。
「今さら何を言っておるのです。今となっては新院方に投降してもらっては困る。反乱分子は一掃せねばならないのです。仮に新院が出家でもして投降してきた場合、大した罪には問えません。四百年ほど前に薬子(くすこ)の変で敗れた平城天皇と同じく、京のどこかに幽閉するのが関の山でしょう。それでは常に反乱分子を抱えた状態で過ごすこととなります。御堂関白殿の時代と今では時代が違うのです。治天の君による政治形態が常態となった今、いったん皇統から外され、出家しようとも、有力な皇子さえいれば院政は可能なのです。重刑、即ち配流に処するには新院に武力で朝廷を打倒しようとしてもらわなければなりません。」
信西は新院の復権を恐れていた。
主上の権威のなさと、帝王らしからぬ振る舞いは自分が一番知っている。
二人は同母兄弟なだけに外戚関係も一緒だ。
妃を迎えたといっても守仁親王にすぐに皇子が生まれるとは限らない。
重仁親王の方に先に皇子が誕生することだって十分あり得る。
元々天皇としての正当性は嫡男である新院と重仁親王の方が勝っている。
現に美福門院の参集にもかかわらず、主たる公卿はほとんど集まらなかった。
様子見を決め込もうというのだろう。
ここは完膚なきまでに新院と左府を叩きのめさなければ。


白河殿では頼長が新院に対し、説得をしていた。
「主上方は戦闘態勢に入ったようです。ここはもう、こちらも打って出るしかありません。」
新院はこれに対し、
「戦は出来ることなら避けたい。使者を遣わして、書状を主上方に送ろう。」
と言った。
「わかりました。書状を送りましょう。しかし、それでも相手が聞き入れないようなら、私は主上方と戦います。それでよろしいですね?」
新院は苦渋の表情を浮かべられたが、最終的には頼長の言うことに合意を示された。
使者には平忠正の子息、新院の蔵人である長盛が立った。


信西は七月十日入夜(午後九時ごろ)源義朝・平清盛を内裏の朝餉(あさがれい)の間に呼び、合戦について意見を述べさせた。
「今すぐにでも合戦に入るべきです。」
義朝が息を荒らげて言う。
「待て、そう急ぐとも良い。ここは様子をみよう。」
忠通が答える。
「まだそんなことを…。」
信西が再度恫喝しようとしたところで、今までずっと御簾の外の様子を見ていた主上が口を挟んだ。
「関白の意見も聞こうではないか。それに私もしばしこの様子を見ていたい。こんな物々しい風景、一生に一度出会える出会えないかじゃろうからの。」
そう言って主上は無邪気に笑った。
御年二十九歳という年齢ながら、未だ子供じみたところのある御方である。
忠通は主上のこの発言にほっとした。
実は忠通は新院方から、密かに書状を受け取っていたのである。
即ち、「主上が御位から降り、重仁親王へと譲位すれば武力攻撃には出ない。よって速やかに武士団を解散させよ」と。
これに対する忠通の返事は、「大人しく帰順すれば罪は軽くする。そちらこそすぐさま武士らを解散させよ。」
というものであった。
当然の如く、お互いの主張は相容れないものであった。
両者平行線のまま、時間だけが過ぎていく。
両軍は鴨川を挟んで近距離で対峙している状態である。
忠通はひたすら虚空を見上げて待機していた。
やがて長盛が何度目かの書状を渡しにやって来た。
そのとき、忠通の行動に目を光らせていた信西がそれを目ざとく見つけ、書状をひったくった。
忠通がしまった、と思った時には遅かった。
信西は書状に目を通すと、豪快に嘲笑った。
「重仁親王に譲位せよだと?何をたわけたことを言っておるのだ。あちらが劣勢なのはもはや明らか。この上は開戦あるのみ。そう返事せよ。」
信西が長盛に対して大声を出した。
長盛はすごすごと帰るしかなかった。
義朝の進言から五時間近くが過ぎ、時刻は鶏鳴(午前二時ごろ)になっていた。
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歴史小説「乱前夜5」

2011/12/19 19:17
頼長は謀反の噂と新院が白河殿に立て籠もったことを聞きつけ、急ぎ宇治から京へと出立した。
この上は戦もやむなし、だな。
頼長はそう決断し、同じく宇治にいる父に摂関家領の武士と興福寺の悪僧らの動員を頼んだ。
頼長の父忠実は、若い頃寺門の争いを収束することが出来ず、朝廷からの信任を失っていた。
そこで考えたのが悪僧の統率である。
寺門勢力には、寺門勢力でもって対抗する。
忠実は信実(しんじつ)に代表される興福寺の悪僧たちを保護し、自身の手中下に納めていた。
「こうなった以上は新院を上に戴き、朝廷と異母兄(あに)を打倒致します。」
頼長が胸を張っていう。
「うむ、関白(忠通)に目に物見せてやれ。」
忠実は息子を進んで送り出した。

新院が白河殿を占拠した次の日の夜、頼長が合流した。
「新院、御無事でしたか?」
頼長はまず新院の安否を尋ねた。
「ああ、この通り元気だ。だが公卿たちは全く来る気配がない。私の不徳の致すところであろうか。」
新院は少しばかり弱気になっていた。
「滅相もございません。他の公卿どもの方が間違っているのです。こちらの戦力の方が有利とみれば、必ずや他の者も集まってくるでしょう。」
「こちらの戦力の方が有利?そちは何を言っておるのだ。戦でもしようというのか?」
この発言に頼長は驚いた。
「新院は戦をするためにここ白河殿に立てこもり、武士を集めていたのではありませぬのか?」
「私にそんなつもりは毛頭ない。公卿たちが馳せ参じるのを待っているのだ。私こそが治天の君に相応しいと証明するために。」
頼長は拍子抜けした。
「今はそんな生ぬるいことを言っていられる状況ではありません。私めと新院が謀反を起こそうとしているとの噂がまことしやかに囁かれております。ことは一刻を争います。急ぎ武士を収集し、朝廷方と戦わねば…!」
何の圧力もかけられていない新院と違い、頼長はすでに謀反の罪を着せられている。
この上は武力行使でもってそれをはねのけるしかない。
「戦う、などとは物騒な。なんとか話し合いで事は片付けられぬのか?」
「難しいことかと。既に武士が我が物顔で都を占拠しております。」
「そうか…。」
新院は母親譲りの美しい顔を俯かせた。
「勝算はあるのか…?」
新院は怪訝そうな顔をして頼長を見た。
「はい、摂関家領の武士の他にも興福寺の悪僧らを味方に引き入れています。まず負けることはないでしょう。」
自信たっぷりに頼長が言う。
「だが、私は出来るなら戦は避けたい。京の町が荒れるのは嫌じゃ。」
煮え切らない態度の新院に、頼長は焦れた。
「それではひとまずここを警護するために私の家人源為義とその郎党を呼びましょう。新院に身の危険が及ぶことは避けたいですから。」
「うむ、よろしく頼む。」
頼長は左京大夫藤原教長を呼び、
「源為義の宿所へ向かい、やつらを呼んで参れ。」
と命じた。


教長は粗末な宿所に居住している為義を訪ねた。
「私は左京大夫藤原教長と申すものである。左大臣の使いで参った。戸を空けよ。」
戸を空けたのは齢六十歳と見られる老武者であった。
教長は茵(しとね、座布団のようなもの)を出されると、一気に語り出した。
「左大臣殿の命令である。白河殿に急ぎ伺候し、新院をお守りせよ。」
すると為義は、
「私は故院の祭文に名を連ねた身です。また、長男義朝はすでに主上の警護についております。親子で相争うなど、とても考えられません。」
と恐縮しながら語った。
「何も戦をすると決まったわけではない。ただ新院の警護にあたれと申しておるのだ。」
教長も新院と同様、戦に及ぶとは考えていなかった。
太上天皇という尊貴な身分の新院に、矢を射かけるなどとんでもない。
だが為義は平身低頭という体ながら言う。
「恐れながら、すでに戦は始まっているも同義。少なくとも主上側は戦をする気でおります。新院と左大臣様が謀反を起こされるという噂は、もはや既定事実となっているのです。こうなった以上は罪をお認めになって出頭するか、戦を起こして勝ちに行くかの二つに一つでしょう。ですが主上方には有力な武士が既に集められております。故院はおそらくこの事態を予想していたのでしょう。勝てる見込みはまずありません。この上は濡れ衣ではあっても罪をお認めになってしまわれた方がよろしいのではないかと存じます。」
この為義の言葉に、教長は愕然とした。
「馬鹿なことを言うな。やってもいない罪に服せなど。そちの身分で、よくそんなことが言えるな。」
普段は穏健な教長も、為義のこの容赦のない言葉には怒りだした。
「私は事実をありのままに申しただけです。」
為義の態度はあくまでも低姿勢である。
「とにかく白河殿へと急ぎ伺候せよ。そなたは左大臣殿の家人であろう。」
「それはそうですが…。」
為義はその言葉にたじろいだ。
「わかったらさっさと警護の準備をせよ。新院がお待ちである。」
「はあ。」
為義は不承不承ながら新院の元に馳せ参じることを承諾した。
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歴史小説「乱前夜4」

2011/12/18 15:24
九日夜半、新院は引き籠っていた鳥羽田中殿から密かに抜け出し、妹の統子内親王の御所に強引に押し入ると、続いて白河北殿に入った。
「故院亡き後、天下を治めるのはこの私だ。あの和歌も詠まず、帝王学さえ学ばなかった者に、治天の君がつとまるものか。この上は私が治天の君となって天下の政(まつりごと)を為す。群臣どもよ、この白河殿に来たれ。」
この頃主たる院御所は白河殿と鳥羽殿であった。
鳥羽殿は美福門院が主となっていたので、新院は白河殿に入ったのであった。
白河殿は守りには適さない場所であった。
新院はここを占拠することで、自分に武力行使を行う意図はないことを示したのである。
新院が目指したのは、あくまでも平和的な権力の譲渡であった。
しかし、公卿たちは新院の元には参集しなかった。
傍観を決め込んだのである。
この頃の貴族はとかく事なかれ主義で、よっぽどのことでない限り自分からは動こうとしない。
結局、集まったのは新院の近臣である藤原教長、年来新院に仕えている武士の平家弘、源為国らのみであった。

新院のこの行動に対し、焦ったのは美福門得子である。
得子も急いで
「故院は私を母后とし、関白以下全ての公卿の頂点に立てと御遺言なされた。よって廷臣らは速やかに私のいる鳥羽殿へ馳せ参じよ。」
という令を発布したが、集まった廷臣は関白忠通とその息子基実、信西入道のみという有様であった。
またしても公卿たちは傍観主義を決め込んだのである。
これには得子の門地の低さが災いしていた。
いくら故院の遺言だからといっても、得子は院近臣家出身の権中納言の娘に過ぎない。
その力の効力も、鳥羽院の存在があってこそ。
院亡き後では、どうしたって権威に欠けるのである。
得子に近しい伊通や公教でさえ、院亡き後得子のみに追従するのには抵抗があった。
自分からは動こうとしないくせに、自尊心や自負心だけは人一倍あるのがこの頃の公卿の特徴でもある。
「なぜじゃ、なぜ公卿どもは妾(わらわ)の元に集わぬ。」
御簾内で得子が癇癪を起し始めた。
それを信西入道が
「まあ彼らには彼らなりの考えがあるのでしょう。私たちの元には主上がおります。あちらに正統性がないのは自明のこと。直に公卿たちもそれに気付いて我々の元に馳せ参じるでしょう。」
と言って宥めた。
忠通は得子の癇癪には慣れているので、黙って聞いているだけである。
嫡子基実が心配そうに忠通の顔色をうかがっている。
基実はまだ十三歳という若さであった。
信西は言う。
「しかし、これで名目がたちました。新院と左府(頼長)が謀反を企てようとしていた。そのために我らはそれを阻止するために武力行使を行った。あとは左府が新院の元に合流するのを待つのみです。」
「そう上手くいくものだろうか。左府が新院に合流せず、投降してきたら如何する?」
得子が問う。
「あの自信家の左府のことですから、投降などは問題外でしょう。必ずや朝廷に対し、反旗を翻します。」
これには忠通も同じ意見であった。
謀反の疑いがけられている今となっては、頼長の取るべき手段は二つ。
即ち出家でもして投降し、罪を甘んじて受け入れること。
だがこれは政治生命を断たれることと同義である。
勝気な異母弟(おとうと)はそんなことはすまい。
もう一つは新院を奉じ、武力を用いて摂関の地位を奪還すること。
しかし、頼長がいくら武力を行使したところで我らにはかなうまい。
何しろ我らには有力な武士の大方がついているのだから。

鳥羽院は亡くなる前に参議藤原宗能の進言を受け、平清盛・源為義ら十名に祭文(さいもん、誓いの文)を書かせて美福門院に献上させていた。
このうち平清盛は父の後妻で義母にあたる平宗子が重仁親王の乳母だったために警戒されたが、あっけなく美福門院の元に参集した。
院の祭文に直々に名前が挙がっているとなれば、参集しないわけにはいかない。
清盛はそれを誇りにさえ思っていた。
迷っていたのは重仁親王の乳母子、宗子所生の頼盛である。
ところが宗子はこの頼盛に対し、
「新院はこの戦で負けるでしょう。勝てる見込みはまずありません。この上はひしと兄清盛に付き従い、帝方に参戦しなさい。」
と言ったのであった。
異母弟(おとうと)と戦わずに済んだ清盛は、養母の献策に感謝した。

宗子は重仁親王の乳母として後ろ髪がひかれる思いであったが、一門の分裂は阻止しなければならないと耐え忍んだ。
夫亡き後、一門の統率は私が取らなければならない。
武力と巨万の富の持ち主として知られた清盛の父忠盛は、三年前に亡くなっていた。
実際に戦が起こるかはわからないが、主上方は有力な武将を揃えている。
新院が武力蜂起したところで、負けるのは目に見えているというものである。
それに、主上方には信西殿がついている。
宗子はいとこの故藤原家成を通して信西とも面識があった。
有り余る博識と強い権勢欲を持つあの男なら、どんな手を使ってもおかしくない。
必ずや主上方を勝利に導くであろう。
宗子には確信があった。
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歴史小説「乱前夜3」

2011/12/17 22:14
保元元年(1156年)七月二日酉の刻(午後八時ごろ)、鳥羽院の葬儀が行われた。
左大将藤原公教が遂行し、院近臣で公教の娘を長男俊憲の妻に迎えていた信西入道が検知を行った。
遺体は院が生前に指名しておいた八人の役人によって棺に納められた。
院は遺詔において「縁」の有無ではなく「恩」を受けた者をその役人にすることを命じている。
役人はいずれも院の身近にあって奉仕した近臣たちで、いずれも鳥羽院庁の四位別当や半官代(ほうがんだい)の任にあった。
その顔ぶれは、左京大夫藤原信輔、上総守源資賢、伊予守高階盛章、右馬頭藤原信隆、出雲守源光保、左少将藤原成親、蔵人・右衛門権佐藤原惟方、そして信西である。
葬儀は故院の遺言により、少人数でのものとなった。
参列したのは太政大臣藤原実行、内大臣藤原実能、藤原公教、中納言藤原公能、と言った鳥羽院の外戚と、参議藤原忠能と蔵人頭・参議藤原光頼だけであった。
三日になると人数は増えたが、それでも少数であった。
関白忠通も葬儀には参列しなかった。
忠通にはまだやることがあったのである。

鳥羽院が亡くなって間もなく噂が流れた。
「新院と左府(頼長)が同心して国家を傾けようとしている。」というのである。
これは忠通と、もう一人の院近臣勢力の中心的存在、信西入道が流したものであった。
忠通はこれを機に頼長から氏長者の地位を取り戻そうとしていた。
父が頼長が失脚してもなお氏長者を渡そうとしないのならば、私も武力行使に出るまで。
忠通は朝廷に依頼し、七月五日高階俊成・源義朝を派遣して東三条邸を襲わせた。
付属の蔵町も一緒に没官(もっかん、罪人に対する刑罰で物や土地などを没収すること)して、義朝に預け守護させるにことにした。
頼長に対する挑発である。
また、その時邸内では平等院の供僧(ぐそう)勝尊が何か念仏を唱えていたので、義朝はこれを搦め捕って朝廷に差し出した。
勝尊は頼長の命により内覧が元に復されるよう祈祷していただけだと言い張ったが、朝廷側はとりあわなかった。
朝廷は勝尊に対し、謀反の心ありとして懲罰を加えた。
朝廷は頼長を謀反人としたのである。

その一方で、乳父(ちのふ)である信西は主上に直々にこんな申し立てをしていた。
「院が亡くなられた今こそが好機です。反乱分子は一掃せねば。京中の武士の取り締まりを検非違使に命じ、また先の関白(藤原忠実)と左府が荘園から武士を動員することを停止させる綸旨を発給する許可を下さい。」
綸旨とは天皇の個人的意思で発給できる簡便な形式の文書で、迅速な処置を必要とするときに下されるものである。
この綸旨の発行には、京中の武士と摂関家領の武士の動きを止めるとともに、摂関家謀反の情報を諸国に伝えるという役割があった。
主上は故院の後世を弔うために馨を打っていた手を止め、
「政(まつりごと)のことは私にはわからぬ。全てそちに任す。」
と、信西の方を見もせずに言った。
「御意にございます。」
思った通り、と信西は笑みを洩らしながら下がった。 
主上は元来政や帝王学といったこととは無縁な御方。
その性質にやきもきすることもあったが、今となっては万事が都合がよい。
私が乳父として代りに権力を行使すればよいのだ。
思いもかけずにめぐってきた帝位ではあったが、一度位についてしまえばこっちのものである。
私にもようやくつきがまわってきたということだな。
信西はそこで再度くっくと低く笑った。

翌六日、検非違使たちは早速東山法隆寺付近で武士を捕らえた。
捕らえられたのは大和源氏宇野親治で、頼長の家人である。
捕らえたのは安芸守平清盛の子息、検非違使で左衛門尉の基盛。
基盛は百騎ばかりを率いていた。
対する親治は完全武装の武士十四、五騎と、腹巻(簡略な鎧の一つ)に矢を背負った徒歩武者十四、五騎のみである。
基盛は親治に対し、
「お主はどこから来て、どこへ行こうとしているのか。名を申せ。また誰の味方をしようというのか。私は平基盛と申すもので、主上から『宇治橋を警護せよ』との宣旨をいただいている。主上の内裏に参上なさるというのなら同行せよ。そうでない場合は通さん。」
と声をかけた。
「私は大和国の住人宇野七郎親治である。所用があって京へと向かう途中だ。主上がどうだのというのは知らん。さっさとそこを通せ。」
「しらを切るつもりか。主上の御命令である。生け捕りにしてくれるわ。」
基盛はそういうと、馬に鞭を打った。
親治も奮戦したが、そこは多勢に無勢である。
あっけなく生け捕りにされてしまった。
親治は頼長の家人ではあったが、綸旨のことは全く知らずに京へ行こうとしていたのであった。

この騒ぎを聞きつけた人々はいよいよ謀反が起こされると思い、慨嘆した。
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歴史小説「乱前夜2」

2011/12/15 23:05
新院は六月三日に本院の元に見舞いに駆け付けたが、御万歳の沙汰を理由に面会は拒まれた。
新院は父は私に会いたくないから面会を断ったのではないかと疑ったが、大人しく還御した。
世人は新院の見舞いすら断るということは、本院はもう長くないのだな、とその死を覚悟した。

保元元年(1156年)七月一日深更。
本院は新院の出生に疑いを持ちつつも、同時に負い目を感じてもいた。
新院。
顕仁。
あの子が生まれた時、私は飛び上がって喜んだものだった。
あの頃私は若かった。
赤子が自分の子ではないなどとは、思いもしなかった。
ああ、私はいつからあの子と距離を置くようになったのだろう。
そうだ、璋子を遠ざけ、得子を寵愛し始めた頃だ。
どこからともなく噂が巻き起こった。
帝は新院の子にあらず。その実は新院の祖父である白河院の子、と。
私はそれを信じた。
信じてしまった。
よくよく思い出してみれば、あの時璋子は「この子はあなた様の子です。」と言っていたのに。
私は一体何ということをしてしまったのだろう。
もし新院が私の実の子だったのならば、私は嫡子を皇統から排除したことになる。
後世の人間からの謗りは免れまい。
だがもう全て遅い。
私はこの世に禍の種を残し、自らは楽に死のうとしている。
なんて身勝手な人間だろう。
最期に一言、一言だけ、新院に詫びを入れたいところだ。
私は得子に促され、そなたを皇統から外してしまった。
すまぬことをした、と。
新院は力なく笑い、眠りについた。

大きな身体の男の元に、まだ五歳ぐらいの幼子が駆け寄ってきている。
ー何を泣いているの?ー
幼子が声をかける。
ーお前の父親が亡くなったのだよ。まだ三十歳にも届かなかったのに。ー
ーお父様が…。お亡くなりに。ー
幼子は父のことを思い出し、悲しく思った。
ー私はお前に全てを与えよう。だがお前が立派な大人になるまで、お前の権力(ちから)を私に預けておいておくれ。お前が立派な執政者になると私が確認できたならば、その時にお前に返すから。ー
幼子はこくんと頷いた。
ああこれは夢なのだな。
大きな男は白河院、私の祖父だ。
そして幼子は私。
こんな光景を、いつだったか見た気がする…。

次の場面は璋子の臨終の場面であった。
さっきの男が璋子の枕の側に立っていた。
鬼のような形相をしている。
ーあれほど女院を頼むと言ったのに…。そなたは女院をぞんざいに扱った…!ー
ーそれは違います。私は私なりに、璋子を愛していました。ー
ーよくそんなことが言えるな。私の一番大切なものをそなたに与えたのに。許せぬ。呪ってやる。私はそなたを呪ってやる…!ー
白河院が私の元ににじり寄ってくる。
本院の耳にはその足音がはっきりと聞こえていた。
これは夢ではない。
「来るな。…来るなあ・・!」
その声を聞きつけ、同じ局に控えていた蔵人藤原惟方が急いで本院の枕許に寄って来た。
「いかがなされましたか、本院。」
本院はやっとさっきのことが夢だったことに気が付かれた。
だが、まだ夢と現実の狭間にある状態である。
「し…・・院にわ…たしの死顔を見せる・・な。」
「し…。新院のことにございますか?本院、本院。」
惟方は本院の身体を揺すぶるが、何の反応もない。
本院はまたしても気を失われたのであった。
果たせるかな、本院が「白河院」と言おうとしたところを、惟方は「新院」と解した。
亡くなってから二十年以上が経つ人間に対して「死顔を見せるな。」と言うとは想像もつかぬであろうからそれも道理だが、この事は後に大きな意味を持つことになるのであった。

そして七月二日、新院は危篤となった本院の元を再度訪れた。
その日は本院のおられる安楽寿院の周辺は車で立て込んでいた。
そこで仕方なく新院はいったん人通りの少ない南殿に車を停めることにした。
するとそこで諍いが起こった。
新院の従者が放った飛礫(つぶて)が平親範の車に当たり、親範が驚いて車から降りる際に目を負傷したのである。
よくある陣取りの諍いだが、これをどこからか聞きつけた女房が惟方に注進した。
死を前にしている者の耳に入れる話でもあるまいに、惟方は
「新院が平親範の目を打ちつぶしたということです。」
と伝えた。
それは全くの誤報であったのだが、本院はそれを聞き、目をきらりと見開いたのを最期に息を引き取った。
享年五十三歳。
遺命によって諡名を鳥羽。
その死の直後、大きな混乱が引き起こされることになる。

新院は南殿にあって本院の訃報を聞いた。
私に本院を怨む気持ちは露ほどもないことをお伝えしたかったのに。
本院は嘆いたが、そうしてばかりもいられない。
この上はせめてその御顔だけでも拝顔させてもらおう。
新院は本院がおられる安楽寿院へと向かった。
新院の牛車と知り、今度はさすがに他の者もすすんで道を空けた。
安楽寿院に着くと、御塔の中へと通された。
あたりは静まっていて、少々薄気味が悪い。
案内する者もいないという有様だ。
寝所へと向かい、御簾内に入ろうとしたところで、新院は行く手を阻まれた。
「本院は新院に死願を見せるな、と遺言されました。よってこれより先には御入り下さいませんよう。」
表面上は厳かに、惟方が言う。
惟方は本院は私だけに胸の内を語ったのだと、少し得意になっていた。
「死願を見せるなだと?嘘を言うな。父親が息子に対してそんなことを言うわけがない。」
「いいえ、本院は確かに仰いました。ここはどうか大人しくお引き下がり下さい。」
新院は動揺を隠しきれなかった。
この遺言を、私はどう解釈すればいい?
父は最期の最期まで私をお拒みになった。
父は私を最期まで実の子とお認めになっては下さらなかったということか。
新院は右の拳に力を込めた。
「わかった。ここは大人しく立ち去ろう。」
「よろしいのですか、新院。」
新院の従者が言う。
「よい、父の気持ちはようわかった。」
憤りつつも、新院はその場を後にした。


翌三日の葬儀にも、八日の法要にも、私は参列しなかった。
本院が私に会いたくないというのなら、私もそれに従うまで。
新院は本院から突き付けられた最後通牒ともいえる仕打ちを胸に、鳥羽田中殿に引き籠っていた。
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歴史小説「乱前夜1」

2011/12/14 19:32
久寿二年(1155年)九月二十三日、守仁王は親王宣下を蒙り、即日立太子の運びとなった。
十二月九日には元服し、翌年三月五日には美福門得子所生の姝子内親王を妃に迎えた。
守仁親王こそが正当な王位継承者であると、認められたのである。


一方、頼長は正妻幸子の喪に引き続いて、異母姉高陽院泰子の喪にも服さなければならなかった。
その間は主に宇治に籠居し、書物を読むことに熱中した。
幸子の死を境に、婚姻関係にあった藤原実能・公能親子は私の元から離れていった。
私が熱望した職、東宮の傅(ふ)には実能殿が就いた。
追い出されるような形で、私は大炊御門高倉邸を後にしたのであった。
婚家の人間として、取りたててやったことは一度や二度にとどまらなかったのに。
頼長は目に悔しさをにじませる。

男色関係を結んでいた故藤原家成の子息らも私の元から離れていって久しい。
もっとも、父家成の家を破却した私を憎むのは当然かもしれないが。
あれほど躍起になって彼らを自らの手中に収めようとしたのに、それも無駄に終わってしまった。
頼長はため息をついて自身の身の上を嘆いた。


頼長は政治的に失脚した。
久寿三年二月に頼長は陣の座において左大臣に復されたが、実質的な権力は失ったも同然である。
忠通は中央政界にあって万事が上手く言ったとほくそ笑んでいた。
だが喜んでばかりもいられなかった。
本院が保元元年(1156年)四、五月頃から不食(ふじき)の病に罹られたのである。
長らく実子に恵まれなかった私は、主上の元にも皇太子の元にも娘を入内させていない。
今本院に死なれたら、残るのは美福門院得子との絆のみ。
だが私は女は信用しない主義である。
今本院に死なれたら困る。
この上は本院の平癒を祈らねば。
忠通は自ら進んで加持祈祷に励んだ。


五月末から六月初めに至り、本院は鳥羽殿において危篤に陥るという事態になった。
「左大将(藤原公教)を呼べ。」
病身にあって本院が言う。
「私はもはや延命を望まない。この上は御万歳の沙汰に切り替えよ。」
本院の病状は相変わらずものが食べられず、胸や腹に灸をすえるも効果はなく、腹や手足まで腫れ出すという有様であった。
御万歳の沙汰とは、臨終を迎える際の作法のことをいう。
現世へのの思いを全て捨て去って、ひたすら往生を願うことに専念したのである。
「はっ。」
公教は短く答え、その仔細を本院から聞きだした。
「まず鳥羽殿に源光保、平盛兼ら北面の有力な武士を伺候させよ。主上の里内裏である高松殿には源義朝、源義康を配せ。私が世を去ったら、きっと何かが起きるであろう。何としても美福門院らを護るのだ。」
「はい、必ず伺候させます。」
「私の荘園については遺命の通りにせよ。」
「はい。」
公教の返事を聞き終えると、本院は一転宙を見上げた。
「美福門院を呼べ。」
「かしこまりました。」
公教は一礼をしてその場から立ち去ると、使いをやって美福門院得子を本院の元へと呼び寄せた。


「得子、私はもう駄目だ。」
寵姫の前ではついつい弱音を吐いてしまう。
「そんなことを仰らないで下さいまし。」
得子は涙を流して本院の身に追いすがる。
「私はすぐにでも出家し、本院のご快復を祈りたいと思います。」
「その必要はない。こんな美しい黒髪を、切るのは惜しい。」
そう言って本院は得子の髪をすいた。
その髪を、そっと唇にあてる。
「そなたとは長い交わりであったな。」
感慨深げに本院が言う。
「今となっては、とても短い間のことだったように思われます。」
しおらしげに得子が答える。
「どうか私を置いていかないで下さいませ。」
得子が泣きながら懇願する。
「ははっ、私のこの様を見よ。あと何日生きられるかも定かではない命だ。」
本院はささやかに笑うが、むせてしまった。
むせた本院の背を、得子が静かに撫でる。
その様子は、近侍の者に二人の夜の様を連想させた。
「得子…。」
本院が得子の目を見据える。
得子。私が育て上げた女。愛児の死にあっても冷静さを失わないこの女なら、この後のことを任せても大丈夫だろう。
「なんでございますか?」
ただならぬ本院の様子に、得子は威儀を正した。
「この上はそなたに私の権力の全てを譲渡する。この国の母后として忠通以下全ての公卿の頂点に立ち、何かあったときにはことの収束にあたれ。」
重体の本院はこのことを言い終えると、そこで気を失った。
得子がうっすらと微笑んだのに気付かずに済んだのは、本院にとって幸せだったのか、不幸だったのか。
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シェヘラいろいろ

2011/12/13 20:50
数多くのフィギュアスケーターが使っている曲「シェヘラザード」。
ちょっと比べてみました。


私が一番好きなのは安藤美姫選手のシェヘラザードです。

「美姫にはセクシーな曲が似合うという個性がある。」

世界女王になった直後にモロゾフコーチが読売新聞のコラムで語っていた言葉です。
当時の記事はなくて、うろ覚えです(^_^;)
その後レオノワ選手の今季のフリーを観て、単純にモロゾフの好みだったのでは?という疑いを隠しきれずにいるんですけどね(笑)。
でもSAYURIのテーマといい、セクシーな曲が安藤選手には似合うと私も思いますよ。
コラムでは他にも挫折を知っている選手だからコーチを引き受けたみたいなことも書かれていたかな。
http://www.youtube.com/watch?v=qKFDeU1c9K4


浅田真央選手のシェヘラは、既存のイメージを覆したという点を評価したい。
可愛くて賢いお姫さま。
音源も素敵。
http://www.youtube.com/watch?v=v2MaZ58jEjk


有名なのはクワンのシェヘラかな。
顔立ちも雰囲気も、本人の個性と合っていて素晴らしい。
http://www.youtube.com/watch?v=US-TCZunxCk


キム・ヨナ選手のシェヘラ。
パクリor焼き直し、もとい「オマージュ作品」とやらは個人的にマイナス20点です(笑)。
衣装まで似たようなのとか。
選手に罪はないのですけれどね。
http://www.youtube.com/watch?v=Pk-V-FCW6RM


伊藤みどりさんのシェヘラザード。
みどりさんは何をやってもみどりさんというか、その技術に圧倒されてしまって。
でもよく見ると手の動きとかに工夫がみられるから、決して芸術性に乏しいわけではないと思う。
http://www.youtube.com/watch?v=m2H6PfFr59M


どうしてシェヘラザードってこんなに選手に人気があるんでしょうかね。
メリハリが効いてて東洋人にも合う曲だからかな。
振り返ってみると、皆アジア系ですしね(男子のライサチェク選手除く)。
とりあえず、今季は真央ちゃんのシェヘラが楽しみです(*^^)v
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歴史小説「四宮登極」「呪詛の噂」参考文献

2011/12/12 20:45
橋本義彦 1954 人物叢書藤原頼長 吉川弘文館
河内祥輔 2002 保元の乱・平治の乱 吉川弘文館
元木泰雄 2000 人物叢書藤原忠実 吉川弘文館
元木泰雄 2004 保元・平治の乱を読みなおす 日本放送出版協会
高頭忠造 1899 史料大觀・台記 哲學書院
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歴史小説「呪詛の噂」

2011/12/12 20:40
内覧の宣旨はなかなか下りなかった。
そして主上が崩御してから一ヶ月が経った頃、信じられない噂が頼長の耳に入った。
なんでも頼長・忠実父子が先帝を呪詛し奉ったために先の帝は崩御したのだというのである。
本院と美福門院得子の元にも出入りしていた家司藤原親隆が語るところによると、こうであった。
先帝が崩じた後、巫女が口寄せして言ったことには、自分が眼疾を患ってついに崩じたのは、先年誰かが自分を呪詛して愛宕護山天公像の目に釘を打ったためである、ということであった。
そこで本院が使者を派遣してその像を検分させたところ、果たして託宣の通りであった。
当時の住僧に尋ね問うたところ、確かに五、六年前の夜中にこういう出来事があったという。
そして美福門院と関白忠通はこれを忠実・頼長の仕業であるとし、本院はそれを信じて私たち父子を憎んでいるというのである。
家司藤原成隆も同様のことを語っている。
この噂は世間に広く伝わっているに違いない。
勿論私は呪詛などしていない。
父とて同じことだろう。
私たちには先帝を憎む理由などないのだから。
だが本院はこの噂をすっかり信じ込んでおられるらしい。
なんということだ。
だから内覧の宣旨が下りなかったのか。
頼長は頭を抱えた。


「私の言った通りにございましょう。あの父子はやはり信用出来ません。それにあの子は生前左府をあからさまに嫌っていました。この件は事実に相違ないと思われます。」
得子が本院に向かって理路整然と語り始める。
「本院、ここは重罰を持ってことに対処するべきと存じます。」
忠通も調子を合わせる。
この一件は、忠通の発案によって工作された罠であった。
愛児を失って悲嘆にくれているであろう本院の心に付け込んだのだ。
これには得子も進んで協力した。
いや、協力したというよりは、もはや共犯であった。
頬に涙を滴らせて先帝との思い出を語ったかと思うと、突然声を上げて頼長父子の悪口をわめき散らしたりする。
「これ、得子、落ち着かないか。」
本院がたしなめると、当の得子は
「私は本院のお気持ちを代弁しているのでございます。太上天皇ともなると、感情を露わにすることも憚られますから。」
いけしゃあしゃあとこんなことを口にするのであった。
「ふむ、そうか。」
そう言って本院は簡単に納得された。
我が子を失った悲嘆にくれている割には、得子は時々現実的な言動をとっている。
常時であれば本院も后の言動のおかしさに気付いただろうが、心身ともに弱っている今ではそれは難しいことであった。


忠実は宇治にあって同じように嘆いていた。
本院に書状を奉るも返報はなかった。
ようやく高陽院泰子を通じて頼長を新東宮の傅(ふ)に任ずるよう懇請したのに対しては、「新皇太子は美福門院の養育するところで、立太子に関することもみな女院が沙汰しているのであるが、頼長はこの三年以来女院に対して勤仕せず、おそらく自分の崩後は女院及び東宮に誠実に仕えるとは思われない。よってそのような人物を東宮傅に任ずることは出来ない。」との返答が返ってくる有様であった。
頼長もまた高陽院泰子を通じて弁明の書状を本院に奉ったが、さしたる返報はなかった。
これには高陽院泰子も困り果てた。
「本院、父上や異母弟(おとうと)の言うことにも少しは耳を傾けて下さいまし。父や異母弟が呪詛するなど、とても考えられません。」
泰子は落ち着いた声で静かに本院を諭そうとする。
「今回ばかりはそちの言うことも聞けぬ。あやつらが呪詛した所為で躰仁は死んだのだ…!」
「そんな…。頭ごなしに決めつけて。第一不自然だとは思われませぬか?五年前にそんなことがあったのならば、なぜ住僧はそのときに報告をしなかったのでしょう。私はこれは誰かが父と異母弟を陥れるために仕組んだ罠かと思われます。」
「む、言われてみれば。だが火のないところに煙は立たないという。私にはやつらを信じることなど到底出来ぬ!」
泰子はその後も根気よく本院に嘆願したが、結果ははかばかしくなかった。
それでも十二月にもなると本院の心にも余裕が生まれたとみえ、喪によって禁じられていた頼長の出仕を許可する勅が下されるのではないかという噂が立ったほどであった。
ところが、この大事な時期になって、またしても頼長の身に不幸が襲いかかった。
高陽院泰子が十二月十六日に崩御したのである。
泰子は頼長と忠実父子と、本院の間を取り持ってくれる重要なつなぎ役であった。
よってその死は頼長父子に多大なる打撃を与えたのであった。

高陽院泰子、享年六十歳。
その人生は不幸であるかに見えたが、本人にとっては父のため、異母弟のために働けた、存外充実した人生であった。
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